まるしん's diary

丸山伸一のブログです。日常の出来事(主にプライベート)、読書・映画評などを綴ります。

『影法師』(百田尚樹)、『まほろ駅前狂騒曲』(三浦しをん)…最近読んだ本

 2014年9月14日『影法師』(百田尚樹講談社文庫)を5日間で読了。百田には珍しい時代小説だ。文章に無駄な脂肪がなく、さらりと読め、かつ面白かった。

 

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 『永遠の0』に通じる「義とは何か」

 NHK経営委員としての百田の発言が、政治的中立を逸脱し右寄りだとか、ナショナリズムをあおっているとか、番組制作現場への不当な干渉だとか言われているが、一連の著作を通じ、江戸時代や戦中戦後の混乱期などにおける日本人の男の生きざまを明確な主張を込めて描く文章はさすがである。義とは何かを主人公の言動を引き合いに訴えかけ、アンチ百田勢力の批判にもぶれない一貫した姿勢は、『永遠の0』『海賊とよばれた男』などと通じるものがある。

 下級武士から茅島藩(北陸のどこか。でも架空の藩だそう)八万石の筆頭家老にまで上り詰めた名倉彰蔵(幼名・戸田勘一)は、二十数年前のある出来事の直後に行方不明となった同士、磯貝彦四郎が、どこでどう暮らしているかを配下の者に調べさせていた。ようやく報告に来た若党が言うには「(彦四郎は五十過ぎて)2年前に亡くなった」。酒に溺れ、人を斬り、飯盛り女と町人長屋に暮らし、最後は労咳を患って死んだという。彦四郎は、若いころは茅島藩で最も文武両道に秀でた良家の息子だった。勘一と彦四郎は、互いを認め合った竹馬の友だった。

 二人の運命を変えた「ある出来事」とは、藩命による「上意討ち」である。藩に楯突いた剣豪らを斬れと命じられ、勘一と彦四郎は脱藩した男たちを追う。いよいよ刃を交えることになったその時、確かな腕を持つ彦四郎はなぜかよろけて「卑怯傷」を負う。結局、勘一ただ一人の手柄となって、その後は異例の出世…。

 

 竹馬の友を立てる「自己犠牲の精神」 

 その理由が明らかにされる終盤、男の友情、いやそれをはるかに越えた自己犠牲の精神が色濃く投影された百田の筆致に、じんわり、やがてどっと泣かされる。(「やりすぎでしょう。そこまで自分を消す必要あるかな」と思ったこともあるが…)

 「家族を守るため特攻に行った」のが『永遠の0』の宮部なら、「いずれこの国の干拓や世直しを遂げるのは、友の勘一以外にいない」と、自分を犠牲にしたのが『影法師』の彦四郎であった。それを知った勘一が、最後に「犬のような咆哮を挙げて、ただ泣いた」のも、百田らしい「時代劇」の終わらせ方だと思う。

 「韜晦(とうかい)」「裂帛(れっぱく)」「阿漕(あこぎ)」などの漢字、「町奉行・郡(こおり)奉行」の役割など、新たな知識もこの本からもらった。

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まほろ駅前狂騒曲』(三浦しをんは、9月24日読了。

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 三浦しをんの筆力向上については、以前『光』(集英社文庫)の読後感を記したときに少し言及したが、本作を読むと、その思いは一層強くなる。それは文学的に高尚だとか、哲学があるとか、軽妙洒脱だとか美しい文章だとかいうものではない。行間に、あたかも映画を観ているかのような情景が浮かび、主人公・多田、相棒の行天を中心とするまほろ市の住民たちの生き生きとした動きが、読み手に伝わってくる。以前に見た、瑛太、松田龍平の映画『まほろ駅前多田便利軒』の印象が強く残っているせいもあろう。

 まほろの人みな「いい人」なのが気がかり 

 ただ、まほろのやくざも娼婦も、頑固爺さんも、多田が恋に落ちる亜沙子さんも、本作のプチ主役となる5歳の「はな」ちゃんも、もっと言えば無農薬野菜作りをする怪しい宗教団体のメンバーもみんな、それなりにいい人ばかりだ。悪者が出てこない。なので安心して、単純に笑い(ぷっ、と吹き出すこと10回くらい)と涙(しんみりする程度)を繰り返していたら、3晩で読み終えてしまった。もともとは「週刊文春」に1年続いた連載小説。

 

 ストーリーはというと、そんなにドラマティックな展開があるわけではない。行天が精子提供してできた5歳の女児・はなを、多田の便利屋で預かることになる。幼少時、児童虐待を受けて育った行天は「もしや自分もわが子を傷つけるのでは」と怯え、はなから遠ざかろうとする。一方、多田は、はなを心底かわいがり、私生活ではバツイチのレストラン経営者と恋に落ちる。便利屋の仕事では、無農薬野菜を作る宗教集団と地元やくざの確執に巻き込まれたり、バス会社の間引き運転を疑う頑固ジジイの抗議のための“バスジャック”が起きたり、それこそ「狂騒曲」が奏でられる。

 

 荒唐無稽な場面もあるが、不思議と不自然さは感じない。むしろ意図的な「はずし方」は、読者をまほろワールドに引き込み、笑わせようという著者精一杯のサービスではないかと思わせる。終盤、生きるとは、死ぬとは、といった三浦しをんの死生観も淡々とつづられる。最後、便利軒にどやどや集まっての新年会シーンは、この上もないハッピーエンドなのだが、舞台劇の幕が下りる寸前のようにベタで、ちょっとシラケた。

  今秋、全国ロードショー

 「まほろ市」は「町田市」、「ハコキュー」は「小田急」、「横浜中央公通バス」は「神奈川中央交通バス」をそれぞれもじった架空の名称。かつて横浜に10年以上住んだボクとしても懐かしい。秋には、いつもの瑛太、松田龍平がコンビを組んだ映画『まほろ駅前狂騒曲』(大森立嗣監督)の封切りが決まっている。どれ、観るとしよう。