まるしん's diary

丸山伸一のブログです。日常の出来事(主にプライベート)、読書・映画評などを綴ります。

一枚のモノクロ写真がささやく

 ぶらりと出かけた写真展や絵画展で、思わず足が止まる作品と出逢った経験は、だれにもあるだろう。ボクの場合、このモノクロ写真「新聞スタンド 1938年」もそのひとつ。映画『LIFE!』に報道カメラマン役で登場するショーン・ペンではないが、写真中央の老紳士が「おい、オレに興味あるのか? 調べてみろよ」とボクに囁くのが聞こえたのである。仕事の合間に時間を見つけ、ほぼ1年かけて調べた内容を日本新聞協会発行の「新聞研究」(2015年4月号)に掲載してもらった。 

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     ↑ <新聞スタンド 1938年>(所蔵・一般財団法人日本カメラ財団)

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(以下、『新聞研究』2015年4月号掲載)

「新聞スタンド」の時代ーー77年前の写真は語る

            報知新聞社常務取締役編集局長  丸山 伸一

  1枚の写真に足が止まった。一昨年暮れ、東京・一番町のJCIIフォトサロンで催された<「日本工房」が見た日本―1930年代―>展でのこと。説明書きには「新聞スタンド 1938年」とあるのみだ。場所はどこか、何月何日の新聞が並んでいるのか、当時の世相は、なぜ撮影者はこの1枚を残したのか。業界人の体質だろう、知りたがりの虫が這い出し、カンカン帽の老紳士が「お前も記者なら調べてみろよ」と語りかけて来た。フォトサロンの運営委員に尋ねてみたが、他に手がかりはないという。ならば自力で――。謎解きを試みることにした。

 日中戦争とプロパガンダ

 確かなのは、撮影者が「日本工房」のカメラマンであること。日本工房はヨーロッパのグラフ誌で活躍した報道写真家名取洋之助が1933(昭和8)年、木村伊兵衛、原弘らを誘い、日本初の「報道写真」を標榜する制作集団として発足した。後に土門拳、藤本四八らも在籍。対外宣伝のグラフ誌『NIPPON』を発行し、日中戦争から太平洋戦争に至る時代は日本の国威、軍事・技術力、思想、文化などを誇示する写真を海外向けに発信した。「新聞スタンド」もプロパガンダ写真の可能性を排除できない。

  一方、撮影年の1938(昭和13)年は日中戦争勃発の翌年である。日本軍は上海、南京に続き徐州、武漢三鎮(漢口、漢陽、武昌)など、中国心臓部で占領地を拡大していく。新聞スタンドに貼られた各紙「前垂れ」の筆書き文句は、大陸での戦況を伝えるものだろう。4月には国家総動員法が公布され、兵力増強、軍需優先の国策の下、様々な統制が敷かれていく。国民生活にも戦争の影が色濃く落ちてくるころだ。

  そうした時代背景を踏まえ、手がかりを求めて写真を精査する。(●は判読できない文字)

 ①各紙の前垂れ文句

 「朝日」=日ソ折衝内容/「讀賣新聞」=長江前線衝く/「東京日日」=ソ聯の窮策/「國民新聞」=漢口●人引揚/「報知新聞」=ソ●隊入港

 *読売の前垂れには「七月一日開館 ●の國技館 ご期待を乞ふ」の印刷あり

 ②老紳士

 手に持つ本に『支那の人』の文字。カンカン帽は当時流行った夏の正装。強い日差し、後方の若い女性の半袖姿と合わせ、盛夏に撮られた1枚のようだ。対外宣伝用であれば、老紳士は〝モデル〟なのかもしれない。

 ③建物

 太い石柱のあるコンクリート造りのよう。縦に白い雨樋が伝う。上部に看板様のものがあり、右のそれには「トーキー試寫會 七階」の文字。7階がある百貨店、文化施設などの建物か。左端には露店の一部のようなシートが見える。

 

 ◆東京で一番にぎやかな交差点

 まずは撮影場所を特定したい。当時、日本工房があった東京・銀座に狙いを定め、古い写真集などをめくってみるが、該当するものに巡りあえない。

 昨年11月、江戸東京博物館の〈モダン都市銀座の記憶―写真家・師岡宏次の写した50年―〉展に足を運び、大きな発見をした。師岡は1930年から半世紀にわたり、銀座の街とそこに集まる人々を撮り続けた。「これか!」とうなったのが、40年撮影の1枚「2600年の三越」だ。今の銀座三越がある銀座四丁目交差点。大写しされた建物外壁には「祝皇紀二千六百年」の垂れ幕が下がる。

 

 細部を見ると、交差点に面した正面玄関の向かって左の石柱と雨樋、広告看板、展示窓が「新聞スタンド」の背景とそっくりだ。ゾクゾクしながらメモをとっているうち、疑問が湧いてきた。待てよ、目の前のセピア色の三越は6階建てじゃないか。北側屋上の一部に、増築した部分があるようにも見えるが、はたして「トーキー試寫會 七階」が可能だろうか。三越ではないのかもしれない。

 

 三越伊勢丹ホールディングス業務本部総務部の森正弘さんは、いくつもの資料を調べたうえで回答してくれた。「7階部分もあったと思われます」。社史によれば、1930年開店の銀座支店は「地下1階地上6階」だが、後に百貨店商報社が発行した「日本百貨店総覧第一巻 三越」には「地階ととも(ママ)七階屋上にも一階二階ありて…」とあるそうだ。それなら「試寫會 七階」もあり得よう。

 「銀座支店は空襲で全焼し、当時の史料もほとんど残っていないため、(試写会の内容など)催事については不明です」という森さんが、当時の写真を見せてくれた(下の写真)。

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<1930年開店の三越銀座支店=三越伊勢丹提供>

 

 確かに正面玄関の向かって左側は「新聞スタンド」写真の背景と似ている。しかも、歩道の左端に、居並ぶ露店が鮮明に写っているではないか。

 日本工房カメラマンの撮影場所はここに違いない。 

 ◆戦況から日付を絞り込む

 次はスタンドに並ぶ新聞の日付を特定したい。前垂れの文句を参考に1938年の新聞データベース(DB)を調べ始めてすぐ、6月25日の読売新聞に掲載された2段広告が目にとまった。

 <『支那の人々』清水安三著 鄙友社発行 定価一圓二〇銭> 。「支那民衆の生活を描く萬華鏡」のコピーがある。

 老紳士の持つ本はこれかもしれない。著者の清水は大正時代、キリスト教牧師として中国に渡り、北京に日本、中国、朝鮮半島の子供の学舎「崇貞学園」を設立、戦後は日本で桜美林学園を創設した。東京・町田の桜美林大学を訪ね、『支那の人々』初版本を見せてもらう。

 

f:id:maru7049:20141128121717j:plain (桜美林大学所蔵)

 

 一見、表紙の図柄と違うようだが、老紳士の本には帯が巻かれており、帯のない部分に初版本と酷似したコラージュがのぞいている。同じものだ。奥付に「昭和13年6月10日初版発行」とある。老紳士が写真に収まったのは、その日以降ということになる。

 「6月10日以降、盛夏まで」と予測し、前垂れの文句を検索窓に打ち込んでみるが、うまくヒットしない。例えば「長江前線を衝く」を読売のDBに入力しても該当記事なしという具合。もしや前垂れに筆を走らせた人物は、新聞の見出しを意訳してコピーにしていたか。

 ここは腰を据えて日中戦争史をおさらいし、DBだけでなく古い縮刷版も逐一めくることにした。すると、5紙の前垂れ文句に該当しそうな見出しと記事が集中掲載されたのは7月23~24日ころであることがわかってきた。 

 ◆前垂れ文字はだれが書いたか

 まず「長江前線を衝く」は、7月24日読売新聞朝刊一面の「神速果敢! 長江猛進撃 湖口対岸に敵前上陸 大狼狽の敵軍忽ち潰乱」の見出し・記事からとったものらしい。武漢三鎮攻略を目指し長江(揚子江)を遡る海軍が前日、江西省の湖口対岸に上陸し、敵陣を制圧したことを大々的に伝えている。

 また、同23日国民新聞夕刊一面には「千二百の外人引揚げ 陥落迫る漢口慌し」の見出し。湖口に迫った日本軍の勢いに押され、漢口の米、ソ連などの外交官、軍人、報道陣らが一斉に引き揚げ準備に入ったという記事だ。前垂れの「漢口●(外?)人引揚」と一致する。

 

 他の3紙はソ連絡みの前垂れだ。中国東北部の「満州国」では、ソ連兵による国境侵犯が頻繁に発生。7月6日には張鼓峰にソ連兵が進攻して戦闘となり、重光葵駐ソ大使がモスクワでリトビノフ外相と数次にわたって会談、8月11日に停戦協定が成立している。朝日(東京朝日新聞)は7月23日朝刊一面に「張鼓峰事件の折衝内容 派兵は國境警備 リ外相、重光氏に答ふ」のロンドン特電を掲載した。前垂れの「日ソ折衝内容」に該当する記事だ。

 報知新聞は同じ23日夕刊一面で「駆逐艦五隻入港 フルゲーリマ島に」と、ソ連軍の進攻を報じた。前垂れの「ソ●隊」は「ソ艦隊」か。東京日日の前垂れ「ソ聯の窮策」も、同紙23日夕刊一面の「血の粛清開始から急増 枚挙に遑なき不法越境 ソ聯國民の注意轉換策」から取ったものと思われる。

 

 いつの新聞?―の答えは「1938年7月23~24日」と結論できそうだ。筆致から推察するに、5紙の前垂れ文句を書いたのは同一人物だ。その人物が更新をサボることがあったとしても、誤差は後ろへ1、2日程度ではないか。ただ、その場合、読売の前垂れの「七月一日開館 ●(夏?)の國技館 ご期待を乞ふ」が引っかかる。同館の「危機を孕む世界一周展覧会」は7月1日~8月末に開催された。普通なら「ご期待を乞ふ」は6月末までしか使えないが、まあ開催期間中である、誰も文句は言わないだろう。当時は紙の無駄遣いこそ御法度、読売の前垂れは月をまたいで使われたと見た。

 ◆時代の変化切り取った

 前出の師岡宏次は1930年代、「モダン銀座」に好んでカメラを向けた。日中戦争が始まって以降も「銀座の女性」「一丁目のネオン」「銀座ダンスホール」など華やかな街の表情を撮影している。展覧会場にこんな説明があった。「その後、時局の悪化で輝くネオンは電力統制で消え、食糧不足から飲食店も休業・閉店した。服装も流行ファッションから国民服・婦人標準服(モンペ)に変わっていく。

 「新聞スタンド」も、夏の日差しの下、正装の老紳士と流行服の若い女性が、試写会開催中の百貨店の前で交差するという一見、平和で明るい構図になっている。だが、老紳士の右手が指さすのは戦時下の新聞各紙。日本工房のカメラマンも、ファインダーの向こうに時代の変わり目を感じ取っていたはずだ。

 

 最後に、今では見かけなくなった新聞スタンドという販売形態について。新聞の歴史に詳しい春原昭彦・上智大名誉教授に伺うと、新聞のスタンド売りは日露戦争(1904~5年)のころ、戦況を国民に知らせるために東京の街頭で始まり、大阪、名古屋などに広まった。一部のスタンドや街頭での売り子販売を、どこかの「親分」が仕切ったり、宅配を増やしたい新聞販売店と対立したりの時代もあったが、関東大震災(1923年9月)以降は警察の正式な許可を得てスタンドを設置するようになったという。

 「この写真のころが、第二次大戦前、新聞の隆盛期の最後ですね。以後、国家による紙の統制や新聞業界の再編も始まって行ったのです」

 新聞業界もまた、大きな曲がり角を迎えていたのだ。      <了>