まるしん's diary

丸山伸一のブログです。日常の出来事(主にプライベート)、読書・映画評などを綴ります。

「暴言」中学生と歴史の生き証人

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「死に損ないのくそじじい」

  修学旅行で長崎を訪れた横浜の中学生が、爆心地周辺を案内していた被爆者で語り部の森口貢さん(77)に「死に損ないのくそじじい」などの暴言を吐き、森口さんが学校側に抗議した、というニュースが流れた。(2014.6.7)

 

 なんという糞ガキ! 森口さんの怒り、悲しみはいかばかりか。キツーいお灸をすえてやるべし、というのが率直な感想だった。案の定、ネット上には中学校名と4人の中学生の実名まで流れ、バッシングが起きている。一方の森口さんに対する誹謗中傷も散見されて、やるせない気持ちになる。校長はメディアの取材に、「許される言葉ではなく反省を促したい。十分な指導ができず申し訳ない」と話し、生徒の感想文と校長の謝罪文を森口さんに送る考えだという。うわべだけの反省や謝罪の言葉を書き連ねるのではなく、森口さんに会って、本心から頭を下げてほしいと思う。

 

 なぜ中学生は「死に損ない」などと言ったのだろう。最初の面会の時、態度の悪さを森口さんにとがめられ、「出て行け」と言われたことを根に持っていたようだ。だとしても、原爆で生き残った人に浴びせる言葉として、「死に損ない」は絶対の禁句だ。未熟さゆえ、そうした常識すら持ち合わせていなかったのかもしれないが、おそらく暴言の瞬間、この中学生にとって森口さんは、「被爆体験の語り部」ではなく、単に「自分を叱った口うるさい老人」としか映っていなかったのだろう。

 

教師は何をしたのか

 その責任の多くは教育者、とりわけ教師にあると思う。修学旅行に出発する前に、中学生に教えておくべき知識――戦争の歴史、2発の原爆の悲劇、被爆者たちの長年にわたる苦悩など――は山ほどあったはずだ。行った先で「見た」「聞いた」ところから学習を始めるのではなく、行く前に仕込んだ「知識」を「実体験」することこそ修学旅行の目的だろう。くだんの中学生にそうした基礎知識があって、修学旅行ではなぜ被爆地を訪れ、被爆者に話を聞くのか、という明確な問題意識があれば、暴言など吐くはずもなかった。

 

 こんなことを書いたのも、戦後70年になろうという今、先の戦争をまったく知らない世代、まったく関心を持たない世代が日本人の多くを占めるようになり、アメリカと戦争した事実さえ「知らない」と言う若者が登場してきたことを憂えるからだ。

 

「戦争」に関するすべてのキーワード

 直接であれ間接であれ、少しでも戦争との「接点」がある者なら目をそむけない。海軍にいた父が終戦の直前、南方で負傷し米兵の捕虜となって帰還したこと、旧満州にいた叔父が、終戦直後に攻め込んできたソ連兵によってシベリアに抑留され、帰国したものの体調すぐれず若くして亡くなったこと、いくつかそういう「接点」のあるボクは、「戦争」に関係するすべてのキーワードに少なからず反応する。

 

 叔父との「接点」だった「シベリア抑留」は、社会部記者時代の1990年代前半、5度にわたってソ連、ロシアを取材に訪れて、抑留中死亡した元日本兵の墓地や、当時の収容所の模様などを知るロシア人を探しまくったことをきっかけに、ボクの取材上の“ライフワーク”となっている。

 

 シベリア抑留は、まったくの不条理に満ちた、戦後ソ連の国家的犯罪である。スターリン秘密指令によって、武装解除後に旧満州からシベリア、モンゴルなど凍土の強制収容所に送られた元日本兵は約60万人。第2シベリア鉄道(バム鉄道)の建設、森林伐採など過酷な労働を強いられ、病気や飢え、寒さなどで計5万5000人が「ダモイ(帰国)」を夢見つつ亡くなった。生き延びた収容者たちは、1955年(昭和30年)頃までに順次帰国したが、体調を崩した人が多かったほか、「ソ連共産党に洗脳された」「アカ」などと後ろ指を差される人もいて、相当に辛い思いをした。

 

 強制労働の対価として当然払われるべき金銭補償をソ連は拒否、元日本兵たちは国を相手取って賠償訴訟を起こしたが、こちらも退けられた。長年の訴えにようやく国会が動き、元日本兵らに25万~150万円の特別給付金を支給する「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」が成立したのは、2010年6月16日のことである。

 

 

シベリア抑留死亡者の名を刻す

 しかもソ連は、戦後ずっと抑留死亡者の存在を認めず、名簿の存在や元日本兵を埋葬した墓地の情報などの公開を拒んできた。日本の厚生省(現厚生労働省)は、引き揚げ者の聞き取り調査から、少しずつ名簿作成や墓参、遺骨収集を進めていたが、ソ連側から本格的な情報提供が始まったのは、ゴルバチョフ大統領時代のペレストロイカ政策によって、大量の抑留死亡者名簿が引き渡されるようになった1990年代前半のことだった。

 

 1926年(大正15年)、新潟県糸魚川市生まれの村山常雄さんは、45年5月、17歳の時、旧満州で繰り上げ招集され関東軍に入隊、敗戦でソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク地方ムーリー、ウルガリの収容所で4年間、強制労働に従事させられた。肋骨カリエスなどを患い、49年8月に舞鶴に帰国したときは担架に乗せられていた。緊急入院、再手術。ペニシリンに命を救われた。

 52年(昭和27年)、代用教員として新潟県西蒲原郡の中学校に赴任。54年にカズ夫人と結婚。85年に能生町立能生中学を最後に退職するまで教鞭を執り続けた。

 

 1996年、70歳の誕生日を期に、村山さんは壮大な計画を立て、パソコンに向かった。「シベリア抑留中死亡者」の名簿を自らの手で作り上げ、それをデータベース化しようと考えたのである。厚労省が公開しているデータに加え、民間団体や個人からも記録を集め、延べ5万3000人分の名前を4年かけて入力した。初心者、かつ我流のため、バックアップ方法も知らず、数千人分のデータを一瞬にして失ったこともあったという。

 

 次いで、カタカナ表記の名前を漢字表記に変換し、重複した氏名を整理する作業に取りかかる。新聞に投書し、遺族らから情報を集めたほか、国、民間団体の漢字名簿と突き合わせるなどし、名簿の人数を4万6300人に絞り込んだ上、うち3万2000人を漢字氏名に変えた。「ホタノ・テレネダ」は「浜野照太郎」、「トーイヨタキ・ホンデゼロ」は「冨高平十郎」…。もともとは、収容された元日本兵からロシア兵が聞き取って、ロシア文字で表記した名簿。それを厚生省がカタカナに書き換えたものだから、いくつも不自然な名前が残っている。村山さんは1人1人、資料と照合して書き換えていった。これにも4年を要した。

 

名前――人間の生きた証し

 2005年、ついに自分のホームページで名簿を公開。それを本にまとめた「シベリアに逝(ゆ)きし人々を刻す」(プロスパー企画、B5判1053ページ、7500円)を07年に自費出版した。さらに2009年には、解説を加えた「シベリアに逝きし46300名を刻む――ソ連抑留死亡者名簿をつくる」(七つ森書館)を出版。「70の手習い」から始めた精力的な活動には、ただ驚くばかりである。

 常々村山さんは「名前は、その人にとって生きた証し。名前の特定は抑留死亡者の尊厳を取り戻す作業」と語っていた。1日10時間、パソコンに向かい、執念を燃やし続けた。

 

 村山さんとは、ホームページで名簿を公開した直後から、何度か取材でお話を聞かせてもらった。抑留者団体の集まりや、国会への陳情などで上京された際には、名簿の進捗状況や苦労話を聞かせてくださり、時にはインターネットについて専門的質問をして来られた。記憶力の良さと、知識の豊富さにびっくりするしかなかった。

 

 2007年8月、「シベリアに逝(ゆ)きし人々を刻す」の村山さんと、やはり抑留経験者で350枚の細密なペン画と記録文を「シベリア抑留1450日」にまとめた山下静夫さん(2012年3月、94歳で死去)の出版記念会が、都内で開かれた。この2冊は、シベリア抑留の真実を後世に伝える上でこのうえなく貴重な資料であり、また日本の出版史に残る偉大な著作物と言える。

 あいさつで、村山さんはロシア語と日本語で1曲ずつ歌を歌った。当時81歳とは思えぬ声量と名調子。会場にいた女優の松島トモ子さんが拍手を送り、「父の抑留生活ぶりを山下さんのペン画で想像し、父の名前を村山さんの名簿で探しました」と話したことを覚えている。

 

村山さん、安らかに

 冒頭に掲げた写真は、6月16日午後、参議院議員会館で行われた「村山常雄さんをしのぶ会」の一コマである。村山さんは、5月11日、肺炎のため入院先のさいたま赤十字病院で亡くなった。88歳だった。

 会場には、60人ほどの抑留経験者、ご遺族、教員時代の教え子らが詰めかけ、それぞれ村山さんの遺影が飾られた祭壇のわきで、お別れの言葉を述べた。元抑留者の1人は、「今ごろ名簿に名を刻した人たちに天国で囲まれて、村山さん、シベリアの思い出話をしていることでしょう」と述べた。

 

 シベリア抑留経験者の平均年齢は91歳を超えている。急速に「生き証人」が減っていく中、その言葉を受け継ぎ、後世に戦争の悲惨さ、不条理さを伝えていくのは次の世代に属するボクたちの役目だ。マスコミ、教師、学者、作家、親たち…。いろいろな機会をとらまえて。もう二度と、「死に損ない」などの暴言を聞かないように。

             (2014.6.16記す)