まるしん's diary

丸山伸一のブログです。日常の出来事(主にプライベート)、読書・映画評などを綴ります。

名取洋之助~「前畑がんばれ!」を撮った男

 

 きょう(12月10日)の「スポーツ報知」朝刊(東京本社発行版)「L」に書きました。1936年、日本人初の報道写真家として、ヒットラー政権下のベルリン五輪を取材した名取洋之助(1910-1962)のこと。大観衆で埋め尽くされた開会式のスタジアム、女子200メートル平泳ぎ金の前畑秀子のゴールシーン、銀と銅メダルを半分ずつくっつけて「友情のメダル」を分け合った西田修平と大江季雄の棒高跳び決勝など、貴重なショットを数多く残しています。

 私個人としては、当時、ベルリンで撮影した写真はどうやって日本に送られ、新聞に掲載されたのかがとても興味がありましたが、取材を進める中で理解できました。これだけでも面白いです。

 戦後も「岩波写真文庫」編集などで活躍したのに、あまり知られていない名取ですが、今月18日(水)から日本橋高島屋で「名取洋之助展」が開かれますので、私の記事を読み興味を持たれた方は出かけてみてはいかがでしょうか。

 

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<記事全文>

 「前畑がんばれ!」。1936年(昭和11年)8月のベルリン五輪。ラジオの実況中継に日本中が興奮する中、名取洋之助は競技会場のプールサイドで、カメラのシャッターを切り続けていた。日本人初の報道写真家と言われ、大戦を挟んだ激動の時代に日本の文化・伝統、近代国家としての姿を海外に発信した名取。木村伊兵衛土門拳、三木淳ら多くの写真家にも影響を与えた。没後半世紀、名取の足跡をベルリン五輪取材を中心にたどってみる。   (ペン・丸山伸一) 

 

 1910年東京生まれ、慶応義塾普通部卒業後にドイツへ遊学した名取は、現地雑誌に投稿写真が採用されたのを機に写真家を目指す。31年、欧州最大の発行部数を誇った週刊グラフ雑誌の発行元、ベルリンのウルシュタイン社と契約。ドイツ語のレポルタアゲ・フォトを「報道写真」と訳し、初めて報道写真家を名乗る日本人になった。 

 36年、26歳のとき名取は同誌からベルリン五輪特別号の写真撮影を依頼される。日本の新聞社からも五輪の写真特派員を委嘱されており、日独双方のメディアからの期待を背負った大仕事となった。 

 特別号には、名取が撮った開会式の模様のほか、棒高跳びの西田修平を追った「西田の1日」という特集ページも掲載された。西田は大江季雄と同記録の4㍍25を飛び、西田が銀、大江が銅メダルと決まるが、帰国後、西田が言い出して2人のメダルを半分に割ってつなぎ合わせたことから、「友情のメダル」と呼ばれるようになった。このエピソードは教科書にも掲載された。 

 注目の前畑秀子は8月11日、女子200㍍平泳ぎに登場。ドイツ選手とデッドヒートを繰り広げた末、1秒差で日本女子初の金メダルに輝いた。名取はゴールの瞬間をカメラに収めたが、前の人の頭だろうか、影が入ってしまった。勝利した前畑の表情が見える別カットもある。マラソン金の孫基禎三段跳び金の田島直人の並んだ写真もある。これらは新聞には掲載されず、近年、遺族から寄贈されたネガの中から見つかった。いずれも報道写真として貴重な発見だ。

 

 ところで当時の日本の新聞は、ベルリン五輪をどう伝えたのだろうか。

 五輪取材が過熱するのは今も昔も同じで、各紙とも数人の記者をベルリンへ特派、国際電話や電報で記事を日本に送った。時差が8時間あり、勝敗が決するのが現地の夜ともなると、日本の新聞社は午前3時、4時まで締め切り時間との勝負になった。前述の「棒高跳び西田、大江が2、3等」の一報は、『報知新聞』だけが朝刊に突っ込み、他紙は午前7時以降、号外発行で対応したとの記録もある。 

 面白いのは写真だ。各紙の写真特派員が現地派遣されたが、撮った写真を日本に送るには、シベリア鉄道や航空機を乗り継ぎ、フィルムを運ぶのが普通だった。このため、開会式や競技の写真は、ほぼ1週間から半月後の日本の新聞に掲載された。8月19日付『中外商業新報』(現日本経済新聞)は、名取が1日に撮り空輸した開会式の写真を、横長のパノラマ仕立てにして掲載している【上の紙面写真の中央部分】。 

 これに対し、大会直前に日独両政府が試験に成功したベルリン―東京間長距離写真電送は画期的な技術だった。わずか15分ほどで写真1枚を送ることができる。日本での配給権を委譲された同盟通信社は、連日20枚以上を各社に配信した。ただ、当時の電送写真はピンぼけがひどく、念入りな修正をしないと大扱いするのは難しかった。4年後の東京五輪日中戦争により中止)での実用化に向け、技術改良の必要性が叫ばれた。

 

 これより先の33年、名取はウルシュタイン社日本駐在員の肩書きをもらって帰国、東京・銀座に同人組織「日本工房」を設立して活動拠点とした。34年に対外宣伝グラフ誌『NIPPON』を創刊、36年からは先のベルリン五輪取材、米国大陸横断撮影など活発な外遊も行った。渡米中に撮影した写真は『LIFE』誌にも掲載され、名取の評判を世界的に高めた。

 

 名取洋之助研究の第一人者で、日本カメラ博物館(東京・千代田区)運営委員の白山眞理さんは、名取にとっての「日本工房」、『NIPPON』をこう分析する。「最初は生活の手段だった。戦争に向かう中、対外宣伝誌の色彩が強まることに、当初は『国の役に立つならいい』と言っていたが、さらに統制が厳しくなると、自分は写真そのものより、デザインを指向すようになる。名取は理想家ではなく実際家。現実の中で、自分に何ができるかをいつも考えていた」 

 戦後、名取は国内向けグラフ誌『週刊サンニュース』、『岩波写真文庫』などの企画・編集に携わり、62年、東京で病没。92年に刊行された『アメリカ1937』(講談社)で名取を再評価する動きが高まり、2006年には日本写真家協会が「名取洋之助賞」を創設している。 

 白山さんは、名取家から日本カメラ財団に寄贈された膨大なネガ、密着帖などを調査、作品展の開催や写真集発行などに関わるほか、名取の活躍した時代の写真史考証も行っている。「名取はベルリン五輪で膨大な数の写真を撮った。あるドイツ人写真家のように国家宣伝のため日米で作品展を開いた人もいたが、名取はほとんどをフィルムに収めたまましまっておいた。それは、自分にとってベルリン取材は勉強であり、東京五輪の宣伝・広報の仕事を一人で担うことこそ、次の大きな目標と考えていたからだと思う」と話した。

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 『週刊サンニュース』の1948年5月号の表紙には花を持つ少女の写真が掲載されている。これは名取の娘、46年生まれの美和さんだ。ドイツでデザインを学び、日欧を往復する様々な仕事に携わっていたが、99年、タイでHIV感染者の子供たちと出会い、親を失った感染孤児の生活施設「バーンロムサイ」を現地に設立した。併設の縫製場でものづくりの指導をするなど30人の子供たちの母親として活躍している。

 読売プルデンシャル福祉文化賞(2004年)、吉川英治文化賞(05年)など受賞。美和さんには父親のグローバル精神が引き継がれている。

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 12月18日から名取洋之助展 日本橋高島屋

  名取が撮影したベルリン五輪や米大陸、朝鮮半島、中国などの写真約100点のほか使用カメラと、木村伊兵衛土門拳らの作品などを展示。娘の美和さんの「バーンロムサイ」の活動紹介も同時開催。会期・12月18日(水)~29日(日)/会場・日本橋高島屋8階ホール/入場時間・午前10時~午後7時半(最終日は午後5時半)/一般800円、大学・高校生600円、中学生以下無料