まるしん's diary

丸山伸一のブログです。日常の出来事(主にプライベート)、読書・映画評などを綴ります。

Book Review 『終わらざる夏』(上~下、浅田次郎、集英社文庫)

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 1945年8月15日、玉音放送

 終わったはずの戦争が、もう一度始まる――。

 

 そんな帯のコピーに惹かれ、読み始めた浅田次郎である。
 太平洋戦争末期、東京の出版社に勤める翻訳者・片岡は、兵役年限直前にまさかの赤紙を受け取り、医専卒の医師・菊池、歴戦の軍曹・富永とともに北千島最北の島・占守島(しゅむしゅとう)に送られる。島には、アリューシャン列島から米軍が攻め入ることを想定して、帝国陸軍の最精鋭部隊が無傷のまま残されていた。

 ほどなく迎えた終戦。実は、片岡は日本が無条件降伏した場合、武装解除を受ける際に米軍との間の通訳として占守島に派遣された(当然、極秘任務で、本人にも知らされなかった)のだが、終戦3日後の18日、米軍ではなくソ連軍が占守島に攻撃を仕掛けてくる。戦争は終わったはずなのに、なぜなんだ! 片岡らが目にしたのは、スターリンの領土拡張方針に基づく北海道までの占領計画の第一弾、占守島への戦闘機爆撃と、強行上陸だった。

 「占守島は一日で占領する」と豪語していたソ連軍だったが、島の日本軍精鋭部隊は激戦の末、一週間も敵を足止めし、大きなダメージを与えた。その中で片岡は、富永軍曹は……。

 浅田次郎が、読者を泣かせる仕掛けをしないはずはない。本書も、ストーリーの骨格は片岡ら3人の召集、占守島行き、そこでの戦いなのだが、伏線となる3人の過去の物語、そして家族一人一人の物語、周辺にいる軍人たちの本音の叫びなどが圧倒的な迫力で読み手に迫ってくる。例えば信州に集団疎開していた片岡の一人息子・譲は、父親の召集を知って、年上の少女とともに東京を目指し、ただひたすらに歩き始める。ぼろぼろになった二人を、最後に上野駅まで導くのは、人を殺して服役していた刑務所から召集され、偶然二人と出会ったヤクザである。上野駅で、譲が母親と再会するシーンには、泣かされた。「鬼熊」とあだ名され、軍隊でも恐れられた富永軍曹が、母親に宛てた最後のカタカナの手紙にも、涙を禁じ得なかった。終戦処理の特命を受け、方面軍司令部から占守島にやってきた若い吉江少佐が、エリート意識をかなぐり捨てて、最後まで兵士や片岡らの理解者、擁護者たらんとした姿勢にも、泣かされた。

 本書は、戦争の理不尽さを登場人物のセリフを使って随所で訴え、それを推し進める軍部、政府、大本営の異常さ、愚かさを繰り返し嘆く。卑怯なやり方で参戦してきたソ連についてさえ、郷里の恋人を思う若い兵士の苦悩を描く中で、スターリン始めクレムリンの連中のイカレた考え、悪行を適示して、結局のところ「勝者にも敗者にも、戦争は悲劇しか残さない」というメッセージを伝えてよこす。そう、片岡ら3人は「国家」のために戦ったのではなく、「家族」「大切な人」のために戦ったのだと。

 

 不満な点は3つ。一つは、浅田次郎の持ち味でもあるのだが、軍の組織、作戦などディテールにこだわりすぎて、読み手を飽きさせる部分が少々あること。二つ目は、ラストが“ポルノ短編小説”で終わっていること。これには異論もあろうが、浅田ワールドのコアなファンとしては、別のエンディングを読みたかった。三つ目。菊池医師はシベリアに送られ、強制収容所で抑留日本兵の治療に当たるが、いかにもこれが中途半端な描かれ方をしている点である。占守島と同様、ソ連は終戦後に旧満州中国東北部)などにも攻め込み、武装解除した日本兵ら計60万人余りをシベリア各地の強制収容所に連行した。飢えと寒さの中、鉄道建設、森林伐採などの強制労働に当たらせ、6万人以上が死亡した。この「シベリア抑留」の悲劇を、もっと掘り下げて書くか、あるいは本書の中では書かないでもらいたいとも思った。

 機会があれば占守島に行ってみたい、そうして、今も残る戦車の残骸に手を合わせたい、そう思う。